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〝市東さんの問題に生かされなければ、シンポも和解も意味がない〟  ──小泉英政さんの証言  5・24請求異議裁判報告(2)

Photo_4  証言の最初は小泉英政さん。経歴を紹介し、よねさんとの出会い、養子となって遺志を引き継ぐに至った思いが明かされた。
「よねさんはわずかな農地と近所の畑手伝い、里山の恵みによる自給自足の生活を送っていた。住まいは生き延びる最低限の終の棲家。だから闘って強制執行をくい止め、土地と住まいを守るしか生き残る道はなかった」

 だが、政府・空港公団と機動隊はさまざまな迫害の末に、強制代執行で住まいを破壊し田んぼを強奪した。代執行の一年半後に、よねさんは失意の中で体調を崩し、胆管がんを発症し、1973年12月17日に「(自分の)家に帰りたい」という言葉を残して東峰の仮住まいで亡くなった。公団の不手際で残された畑も、その四年後の1977年に明け渡し仮処分で、抵抗する英政さんを排除し、ほうれん草やそら豆を無残に潰して奪い去った。
 英政さんは畑の裁判(空港公団による明渡裁判)を闘う一方、1971年強制代執行に対して緊急性もない〝見せしめ執行〟だとして、処分の取り消しを求めて行政訴訟を起こし長い裁判闘争に入った。

 畑の裁判は、空港公団と結託した地主・藤崎勘司の偽証で敗訴。行政訴訟は地裁、高裁と敗訴したが、2001年に最高裁で、国・公団の全面的な謝罪を前提に和解成立した。公団総裁は「この地で二度と『小泉よねさん問題』のような不幸な出来事を繰り返してはならないと決意する」と談話を発表した。
 これを踏まえて小泉さんは、東峰の空港用地内に無条件で畑(使用権)を取り戻した。生活権補償は、仮補償のままの違法状態が続いたが、代執行から43年後の2015年5月21日に最終的に解決した。これは市東さんの裁判の口頭弁論終結後のことであり、「謝罪」と「二度と繰り返さない(強制的手段の放棄)」の表明を踏まえ前提にしたこととして重大な意味を持つ。

・市東さんとよねさん問題の構造はまったく同じ
 以上の実体験のもとに、小泉さんは、市東さんの農地問題について次のように証言した。
「市東さんの農地問題とよねさんの、特に畑の問題はまったく同じ構造。話し合いの努力を尽くさず、農地法を無視して市東さんの同意を得ることなく、秘密裏に地主から土地を買収して明け渡しを求めるのは、よねさんの畑を強奪した手法を踏襲するもの」
 そして空港会社に対して、
「市東さんに謝罪し、生活を脅かさず、強制執行しないと約束し、裁判を取り下げて、対等な関係に戻す」ことを求めた。

 また、成田空港シンポジウムの「強制的手段の放棄公約」に関しては、一審多見谷判決が、「話し合いの努力が頓挫した場合のことまで約束したものではない」との勝手な解釈を加えたことについて問われて、
「そのような解釈は聞いたことがないし、あるはずもない。強制的手段を取らないということは、あくまで取らないということ。そうでなければ、謝罪・反省の意味がない」と真っ向から否定した。

 最後に、裁判所に望むことを問われて、
「私の陳述書と証言をしっかり受け止めてほしい。市東さんの問題に、シンポや私の裁判の結果が生かされなければ、やったことの意味がない」
「裁判長は市東さんの畑を見に来てほしい。いかに市東さんが真剣に農業に取り組んでいるか、強制執行しても誘導路の現状がなにも変わらないこともわかるはずだ」と訴えた。

 よねさんに対する強制代執行は、人が生き延びるための最低限を守る過酷な闘いだった。英政さんと、その後の加瀬勉さんの二人から期せずして「よねさんの怨念」の言葉を聞いたが、その怨念を背負い、奪われた尊厳を取り戻そうとした小泉英政さんの静かな口調の証言は、だれも語ることのできない説得力を持つものだった。裁判所にもインパクトを与えたに違いない。

〔写真〕小泉よねさん

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